みなさんは、「哲学」とは何かご存じですか?
何か難しくて、堅いイメージがありますよね。
日本ではあまり馴染みのない「哲学」ですが、
欧米ではごくごく日常的で身近なものなんです。
欧米の人は、「This is my philosophy」とか、
「My philosophy is・・・」などのように
自分の価値観や考えを第三者に示す時に
よく哲学という言葉を遣います。
また、初対面の人をより理解するために
「What is your philosophy?」と質問したりもします。
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このように欧米では、
哲学はとても親近感のあるものなのです。
では、哲学とは何でしょう。
哲学はギリシア語の「Philo Sophia」を
西周(にしあまね)という哲学者が日本語に翻訳した言葉です。
「Philo(愛する) Sophia(智)」を直訳すれば、「愛智」となりますが、
「愛智」という言葉は、日本語にはありませんので、
まだ、ピンときませんよね。
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では、「智」とは何でしょうか。
いろいろな解釈がありますが、
私は、
「智」とは「世の中すべてのものにおける原理原則」、
すなわち「理(ことわり)」であると考えます。
「理」という言葉を辞書(デジタル大辞泉)で調べてみると、
| ・物事の筋道。条理。道理。 ・わけ。理由。 ・当然であるさま。もっともであるさま。 |
と書かれています。
すなわち、万物の道理やわけ、
なぜそれが存在するのかという理由などを
追究する思考活動そのものが哲学なのです。
その意味では、すべての学問は哲学ということになります。
国語は、文字によって
数学は、数字によって
物理は、物性によって
歴史は、史実によって
世の中にある物や事象の理を追究しているからです。
それゆえに、アメリカの学位では、
今でこそ、学士は、
Bachelor of Arts(文学士)やBachelor of Law(法学士)とか、
修士は
Master of Business Administration(経営学修士、いわゆるMBA)
のように、
学位に研究した学問の具体的な名称がつけられていますが、
博士は、どんな学問を専攻していても
Doctor of Philosophy
と表記されます。
これは、研究した学問が何であれ、
すべての学問は哲学であることを示しています。
すなわち、数学や医学、天文学などの個別の学問は
あくまでも研究対象の「理」を追求するための一手段にすぎず、
その行為自体は哲学であるということです。
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みなさんは、レオナルド・ダ・ヴィンチを、よくご存じかと思います。
では、彼は何をした人でしょうか?

『モナ・リザ』や『最後の晩餐』を描いた人なので絵描きさんですか?。
確かにその通りですが、どうもそれだけではないようです。
事実、彼の功績は音楽や建築、解剖学、流体力学、航空工学など
とても多岐にわたることが知られています。
中でも驚くのは、
ライト兄弟が人類初の有人動力飛行に成功(1903年)する
はるか以前の15世紀に
彼は、ヘリコプターの設計図を書き残していることです。

(レオナルド・ダ・ヴィンチのヘリコプターについては、こちらを参考にしてください)
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科学が発達した現在でも、
私たちがまだまだ知らないことは、たくさんあります。
ここ数年猛威を振るっているコロナウィルスもその一つです。
過去にも天然痘やマラリアなど、
多くの人の命を奪う疫病がありました。
そして、そうした疫病から人命を救いたいと
勇気をもって立ち上がった人たちがいたからこそ、
今では天然痘やマラリアは、以前ほどは怖い病ではなくなりました。
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これは、もちろん医学の世界だけの話だけではありません。
人類がこの地球に誕生した当初は
自分たちの周わりにある物や事象が
何であるのかがほとんどわからない状態でした。
たとえば、
・なぜ雨は降るのだろうか?
・なぜ暑くなったり、寒くなったりするのだろうか?
・なぜ明るくなったり、暗くなったりするのだろうか?
・なぜ体調が良い時と悪い時があるのだろうか?
・毒のある生物に噛まれた場合に助かる方法は何か?
・大雨で川が氾濫しないようにするためにはどうしたらよいのか?
・より快適な家を建てるにはどうしたらよいのだろうか?
・より簡単かつ着実に獲物を捕まえるにはどうしたらよいのだろうか?
など、
人類は自分たちの身の回りにあるわからないことを、
わからないままで済ますことなく、
それが何であるのかを様々な方法で解き明かしてきたからこそ、
今の安全で便利な生活があるはずです。
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レオナルド・ダ・ヴィンチは
そうした身の回りの謎を、
ある時は絵を書くことによって、
またある時は音楽によって、
またある時は医学によって、
またある時は工学によって、
それらを解き明かそうとした哲学者なのです。
そして、
それはレオナルド・ダ・ヴィンチに限ったことではありません。
ニュートンやデカルト、
ブッタやキリストでさえも、
私は哲学者だったと思うのです。
これまで人類は、
自分たちを取り巻く多くの謎について、
それを謎のまま終わらせることなく、
学問を通じて追究し、真相、すなわち「理」を解明してきたのです。
そして、この「理」を解明する思考活動そのものが、
「哲学」なのです。
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私たちが哲学をするうえで、最も大切なことがあります。
それは、「鵜呑みにしない」ということです。
よくテレビで偉い学者の方たちが出演され、
いろいろなことについて解説をなされていますが、
みなさんは、それをそのまま鵜呑みにしていたりしませんか?。
1995年1月に阪神淡路大震災がありました。
阪神淡路大震災では、
6,000人を超える人たちがお亡くなりになりました。
地震大国の日本であれば、
どこで地震が起きても不思議はなさそうですが、
当時の多くの学者たちは、
「阪神地区では活断層がないので地震は起きない」と
口を揃えておっしゃっていました。
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これを聞き、
私は「本当にそうか?」と少し疑念を抱いた記憶があります。
しかし、悲劇は起きました。
当時のことは、
私は今でも昨日の出来事のように覚えています。
朝、いつものように起床して、すぐにテレビをつけました。
いつもの情報番組を見るためです。
しかし、そこに映し出された画像は、
私が予想していたそれではなく、
廃墟と化した街並みでした。
それはまるで地獄絵図でした。
最初は寝ぼけていたのもあって、
また、私が想像していたものと、
実際に流れている画像とのギャップがありすぎて、
最初はそれが何なのかが、よくわかりませんでした。
しかし、レポーターの悲痛な叫びを聞いているうちに、
その悲惨な映像とレポーターの伝えていることが頭の中で結びつき、
それが地震であること、
そして、大きな被害が出たことをようやく理解しました。
特に、高架となっている阪神高速道路が途中から崩落し、
バスが今にも落ちそうになっていた映像が
起きた地震のすさまじさを物語っていました。
ここで一つ疑問が残ります。
それは上述のとおり、阪神淡路大震災が起こるまでは
多くの学者たちが、
「阪神地区には地震は起きない」と言っていたということです。
しかも、阪神淡路大震災が起きた後には、
彼らはそれまでの自分たちの主張をいとも簡単に翻し、
「阪神地区にはこういう活断層がある」と
次々に活断層の分布図を示し、
あげくの果てには、
「日本中どこでも地震は起きる」と主張していました。
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私はこの報道を見て、
『学者もいい加減なものだな』と
呆れたことを今でも思い出しますが、
だからと言って、
私は彼らを非難するつもりはありません。
彼らも地震が起こるかどうかなんて、
本当はわからなかったのだと思います。
すなわち、
今日のように科学が発達した現在でも
私たちにわからないことは、
まだまだたくさんあるのです。
だからこそ、
わからないことを軽々しく断定してはいけないのだと思います。
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実際、阪神淡路大震災では、多くの犠牲者が出ました。
もし彼らがテレビ等を通じて
「阪神地区でも地震の可能性があるから、常に気をつけるように」
と注意喚起していたら、
その被害が少しでも減らせたのではないか
と思うと残念でしかたがありません。
しかし、
災害が起きた後でそんなことを言っても、
何の意味もありません。
いくら後悔してみても、
過去を変えることなどできやしません。
私は、
「歴史は未来を良くするための教訓として活かすべきである」
と考えます。
先人たちは、自分たちの身の回りの謎を1つ1つ解明してきました。
そうした謎を謎のまま終わらせることなく、
「理」を追究して、
謎を解明していくことが何よりも大切なのだと思います。
そのための手段である学問は何でも構いません。
もちろん、学問には研究対象によって向き、不向きがありますが、
使用する学問が異なっていたとしても、
「理」を追究するという目的さえ忘れなければ、
いつか答えにたどり着くはずです。
あなたも哲学をはじめてみませんか。
太海
