日本では、「恋愛」と一纏めにされることが多いですが、
「恋」と「愛」では、一体何が違うのでしょうか。
辞書(デジタル大辞泉から引用)には、このように書かれています。
| 【恋】 ①特定の異性に強くひかれること。 また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛。 ②土地・植物・季節などに思いを寄せること。 |
| 【愛】 ①親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。 また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。 ②異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。恋。 ③ある物事を好み、大切に思う気持ち。 ④個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。 ⑤キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。 また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。→アガペー ⑥仏教で、主として貪愛のこと。自我の欲望に根ざし解脱を妨げるもの。 |
これを見ても、違いがよくわかりません。
恋の解説では、「恋愛」という言葉が出てきていたり、
愛の解説では、「恋」という言葉が出てきていることからもわかるように、
日本では「恋」と「愛」についてあまり区別してこなかったことがわかります。
ただ、
恋は、何かに思いを寄せることで、
愛は、何かを大切にする気持ちであることは読み取れます。
でも、本来恋と愛は本来違うはずです。
もし一緒であるなら、一つの言葉でいいはずだからです。
もともと日本には「愛」という概念はなかったと言われています。
すなわち、日本には「恋」しかなかったのです。
では、「愛」という概念はどこから持ち込まれたのでしょうか。
それはキリスト教によってもたらされたというのが通説です。
すなわち、「愛」とは
室町時代にフランシスコ・ザビエルが
日本にキリスト教を布教しに来て以降の新しい概念ということです。
しかし、日本では「恋」と「愛」の違いが
はっきりと理解されずに今日まで来てしまったのではないかと
私は思うのです。
私は、日本には「恋」はあっても、「愛」はないと考えています。
もちろん、これは言い過ぎです。
日本にも当然のことながら「愛」はありますが、
欧米ほど「愛」を見かけることは少ないというのが現実です。
前回「我と汝の関係」についてご説明しました。
前回の「我と汝の関係」、「我とそれの関係」を
ご理解いただいている方であれば、
「恋」と「愛」の違いもすぐにご理解いただけかと思います。
すなわち、
「恋」は、「我とそれの関係」で、
「愛」は、「我と汝の関係」ということです。
言い換えれば、
「恋」は、自分が主人公であり、
「愛」は、相手が主人公です。
先ほど、日本には「恋」はあっても、「愛」はないと申し上げましたが、
あれは言い過ぎです。
日本にも「愛」はあります。
たとえば、あなたが子を持つ母親で、
目の前でかわいいわが子が車にひかれそうになっているのを見つけた場合、
あなたはどうしますか?
自分がどうなるかなど考えることなく、
身を挺して子を助け出すのではないでしょうか。
これが「愛」です。
一方、「恋」は自分が主人公です。
すなわち、自分の欲求を満たすために相手がいます。
たとえば、あなたに好きな女性がいたとします。
あなたは、その女性と
・その女性に会いたい
・その女性と話したい
・デートがしたい
・一緒に食事がしたい
・つきあいたい
などの欲望があり、それを満たそうとします。
これが「恋」です。
冒頭の辞書の解説でも、
「恋」とは、何かに思いを寄せることでした。
そして、「恋」がエスカレートすると、
ストーカーになってしまうということです。
そこには、相手の意思を顧みず、自分の欲望だけを満たそうとする
自分勝手な「恋」が存在します。
また、辞書には「愛=アガペー」というような解説がありました。
同じくデジタル大辞泉では「アガペー」を次のように解説しています。
| 【アガペー】〖(ギリシャ)agape〛 ①真の愛。神的愛。 ②神の、人間に対する自発的、無条件的絶対愛。⇒エロスと区別される。 ③キリスト協会で信徒が共にする食事。愛餐。 |
アガペーは、エロスと区別されると書いてありますので、
ついでにデジタル大辞泉での「エロス」の解説についてもご紹介します。
| 【エロス】〚(ギリシャ)eros〛 ①ギリシャ神話で、愛の神。 ②小惑星の一。 ③異性に対する、性愛としての愛。愛欲。 |
辞書からは、
「アガペー」は、神による無条件的絶対的な愛で、
「エロス」は、本来神そのものだが、一般的な概念としては異性に対する性愛
と読み取れます。
ただ、これはあくまでも辞書から私が解釈したものにすぎません。
キリスト教やギリシャ神話における解釈とは違う点が多々ありますので、
そこはご容赦をお願いします。
話を元に戻しますが、
辞書によれば、
「愛」は、「アガペー」のように無条件的絶対的なものであり、
「恋」は、「エロス」のように異性に対する欲望と言うこともできるのではないでしょうか。
日本では、
好きになった異性で、付き合っている人のことを
「恋人」と言います。
そして、結婚した人が、
結婚相手以外で好きになった異性で、付き合っている人のことを
「愛人」と言います。
「恋人」は、好きという欲望の対象ですから非常に理解しやすいのですが、
「愛人」は、どのように解釈したらいいのでしょうか。
その人にとって、
配偶者と「愛人」では、
どちらが大切な存在なのでしょうか。
これは、たぶん人によってその位置づけが違うと思います。
配偶者は、愛する人、
愛人は「愛」という字は使われているものの実は恋人である
という人もいるでしょう。
一方で、
配偶者は元恋人、
愛人は現在の恋人
という人もいるでしょう。
ある人は、
配偶者は恋人、
愛人は本当に愛する人
と言うかもしれせん。
そして、日本人にとっては、
実はそうした区分がはっきりしていない場合が
ほとんどなのではないでしょうか。
なぜなら、日本では「恋」と「愛」の区分が明確ではなく、
「恋愛」という言葉で一括りにしてしまっているからです。
しかし、日本以外の国では「恋」と「愛」は、
明確に違います。
というより、
「愛」はよく見かけますが、
「恋」は日本ほど多くはないという印象です。
中国では、配偶者、特に奥さんのことを「愛人」といいます。
これは字のとおり、「愛する人」、もしくは「愛を注ぐべき人」という意味です。
すなわち、自分が大切にしたい人、大切にしなければならない人を尊重し、
「愛する」という行動をとる、その対象が「愛人」です。
日本は、日本人の正義感や道徳心の高さのためか、
世界の中では最も安全な国の一つです。
そして、政府も他の諸外国と比べたら、
国民を圧迫するような暴政が
歴史的に見ても少なかった国です。
だからなのかはわかりませんが、
日本人は平和の中で他人を信用し、
誰かが自分を助けてくれるという意識が
強いのではないかと考えます。
日本人に「騙す人と騙される人のどちらが悪いか?」と質問すると、
ほとんどの人が「騙す人」と答えます。
しかし、日本以外の国では
圧倒的に「騙される人が悪い」と答えます。
なぜなら、日本以外の国は
常に他民族の侵略や内戦にさらされていて、
それに巻き込まれると家財を奪われ、
最悪家族が殺されるという悲しい歴史が繰り返されてきたので、
基本的に他人を信用していません。
だから、信じられるのは家族だけです。
そして、好きになった人が信じられる人になるためには、
まずは無償の愛を注ぐ必要があることを
本能的に理解しているように感じます。
「愛」とは、「愛する」という現在進行形の行為を伴う言葉です。
決して口先だけでごまかしに遣う言葉ではありません。
一方で「恋」は、必ずしもそうではありません。
好きな人のことを考えているだけでも、欲望が満たされることもあります。
「恋」では、相手は自分の欲望を満たすための対象に過ぎませんから、
もし相手の意思に反する行動をした場合は、
ストーカーなどの迷惑にしかならないこともあります。
日本では、
自分と他の人間との境界が非常に曖昧であると感じることがままあります。
日本には「以心伝心」という言葉があります。
「あうんの呼吸」とか「ツーカー」という言葉もよく耳にします。
すなわち、自分の考えを十分に説明しなくても、
相手がわかってくれると考えている人が
多いような気がしてなりません。
以前、私が読んだ四コマ漫画にこんなものがありました。
家族団らんの風景で、
お父さんがお母さんにむかって「おい、あれをくれ」と言います。
お母さんはそれに反応して爪切りは手渡します。
それを見ていた娘が「お母さんすごい!」と感心すると、
お母さんは「長年つきあっていれば、これくらい分かるわよ」と
得意げに台所に戻っていきます。
しかし、お父さんは心の中で「本当は耳かきがほしかったのに…」と思っています。
よくできた四コマ漫画ですし、とてもほほえましい家族の一コマなんですが、
もしビジネスの世界でこのようなミスコミュニケーションがあったら、
とんでもないミスにつながる危険性すらあります。
このように以心伝心というのは、
普段一緒に暮らしている家族の中でも難しいものです。
ましてや育ちも価値観も違う他人と以心伝心が成立することはありえない
と考える方が妥当でしょう。
日本人には、なぜか自分の考えていることが
自分以外の人にもわかると錯覚する傾向があります。
私も日本人ですから、多かれ少なかれその傾向があります。
でも、それは幻想であると考えを改めるべきだと考えます。
日本以外の国の人たちは、
自分と自分以外の人の線引きがはっきりしていることが多いように感じます。
それが英語でいうところの「be動詞」です。
I am here. You are there. (私はここにいます。あなたはそこにいます。)
このように自分と自分以外の人間がどこにいるのかをつねに確認しながら、
コミュニケーションを行います。
だから、基本的には英語で主語を省略することはできません。
主語を省略すると、話がぼやけてしまいます。
一方で、日本語は主語が当たり前のように省略されることが多い。
主語を省略するので、だんだん誰が主語なのかわからなくなってくる。
会議で決めたアクションプランも、主語を言わないと、だれが担当なのかわからない。
だから、結局誰もやらない、こんなことが起きてしまいます。
関西弁では、相手のことを「自分」といいます。
「自分、どう思う?」、こんな感じです。
私が会社の転勤ではじめて関西に赴任した時、
このように言われました。
初めは意味がわかりませんでした。
二人称に「自分」と遣う、その感覚が理解できませんでした。
そのくせ、一人称の自分自身にも「自分」と遣います。
こうなると訳がわかりません。
でも、この言葉遣いが先ほどの自分と相手の境界線があいまいであることを
ある意味わかりやすく説明してくれていると思います。
どっちも自分なのです。
だから、自分の考えについて十分な説明をしなくても
相手がわかってくれることを期待してしまうのです。
以前、私は上司に呼ばれてこんなことを言われたことがあります。
「今、俺が何考えていたのかを教えてくれ」。
一瞬、何を言われたのかわかりませんでした。
ようやく質問の内容は理解したのですが、
それでも他人である私にそんなことを聞いてくる上司は
どうかしてしまったのではないかと心配しました。
私が「それは少々わかりかねますが…」と丁重に答えると、
「なぜわからないのか!」と激怒されました。
元々横柄な上司でしたが、それで引き下がるような私でもなかったため、
「わからないものはわかりません」と
至極当たり前の答えをして、その場は終わりました。
これは極端な例かもしれませんが、
これに近いことをみなさんも自分以外の人にしていたりしないでしょうか。
私もしているかもしれません。
現代哲学の中に「実存主義」というものがあります。
ここでは、実存主義の詳細な説明は省略しますが、
簡単に言えば、
・男である
・日本人である
・会社員である
といった属性の中にある自分(これを「本質」といいます)の対義語として、
何物でもない自分を実存といいます。
(実存主義についてお知りになりたい方は、こちらをご参照ください)
当初、実存は「現存在」と訳されていました。
実存だろうが、現存在だろうがわからないよとご指摘を受けそうですが、
当時の私もどちらの言葉でも理解ができませんでした。
現存在は、ドイツ語で「Da Sein(ダ ザイン)」と言います。
これを現存在と日本語に訳されました。
「Da(ダ)」とは、「そこに」という意味で、
英語で言えば「There」に相当します。
「Sein(ザイン)」は、英語で言うところの「Be動詞」です。
すなわち、
「There is …」、「There are …」ということです。
先ほど
「I am here. You are there.」という例文をご紹介しましたが、
私という人間は、
・男であるとか、
・日本人であるとか
・会社員であるとか
いう以前に、一人の尊い人間であるはずです。
そういう自分がここにいる、それが「I am here.」ということです。
同様に目の前にいる相手についても
そうした属性を超越して、一人の尊い人間として存在しているはすです。
その意味で「You are there.」ということです。
日本以外の国々では、
このように自分と自分以外の立ち位置を常に明確にし、
別々の価値観を持つ貴重な存在であると認識した上で、
人間関係を構築しようとします。
だからこそ、「I love you」という言葉は、
「あなたが好き」という単純な自らの欲望を表す言葉ではなく、
「あなたを大切に思っています。
あなたのためなら、わが身を顧みず、尽くします」
という意味合いが含まれています。
もちろん、その言葉を遣う人やシチュエーションによって
その重さの程度は違います。
違いますが、日本の「恋」に近い概念ではなく、
「我と汝の関係」を実現するという
意味合いがこめられている場合が多いように感じます。
話が長くなってしまいましたが、
「愛」とは、
冒頭の例のように「母性愛」を思い浮かべていただけると
理解しやすいのではないでしょうか。
すなわち、「愛」とは「我と汝の関係」を実現するための具体的な行為であり、
「恋」は「我とそれの関係」に過ぎない自己の欲望を満たす感情であるということです。
太海







